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「「吉田ドクトリン」の再検討」レビュー

こんばんは、シタン先生です。


昨日、院試のために中断していた筋トレを再開しました

以前は「逆三角形の豪腕提督」を自任していましたが(笑)、最近は酷い有様な訳です…orz

響鬼さんも日々鍛えているわけですから、僕も鍛えなきゃいけないのです(ぇ

腕立て、ダンベル、ハンドグリップ、腹筋…。

お陰で現在、筋肉痛です(汗)

何とか体脂肪一桁までもっていきたいですね~(*´ー`)


えーっと、もちろん頭も鍛えてますよ(笑)


と言うことで、今回はおなじみ(?)戦後日本政治史・吉田外交シリーズです。

豊下楢彦氏の「「吉田ドクトリン」の再検討」をレビューします。

ここで説明を加えておくと、これまで紹介してきた高坂正堯氏らを主な論敵としています。ということで、予め、高坂氏の論文レビューを読んで頂くとより理解が深まると思います。

1.「宰相吉田茂論」レビュー
2.「偉大さの条件」レビュー
3.「日本外交の弁証」レビュー
 
では、いってみましょう。


豊下楢彦「Ⅳ「吉田ドクトリン」の再検討」『現代史と民主主義』東出版 1996年


<本文の要約>

 吉田政権末期にあっては、吉田政権の評価は散々なものだった。しかし、吉田の死語、その評価は180度転換した。これは、60年代の高度成長が背景にあり、この成功を国民的にアイデンティファイする格好の“教義”として持ち出されたのが、「軽武装・経済優先」という、いわゆる「吉田ドクトリン」であったと言える。そして、「吉田ドクトリン」を彩るのが、講和交渉において吉田が米大統領特使ダレスの強硬な再軍部要求を「断固として拒否」したという吉田自身が語るエピソードである。しかし、その当時は、再軍備を拒否した航跡と言うよりは、「警察予備隊を政令で作ったこと」が大きく受け取られていた。また、吉田の発言にはその時期や内容などに関して「事実誤認」があることから史実としては必ずしも正確ではない。つまり、“経済ナショナリズム”の中で、吉田発言がいつの間にか“一人歩き”をしていたと言える。そして、それにともなう「事実誤認」がマスコミはもちろんのこと、研究者レベルまでに及んでいる。また、昭和40年代の日本外交の課題がアメリカに対する「自主・自立」の獲得にあったのであるが、そのため「吉田神話」が受け入れられやすい状況が存在していた。では、吉田の時代に形成されたはずの「アメリカ依存精神」と「吉田神話」とはいかなる関係にたつのか。

 70年代にはいると吉田神話が崩れ始める吉田が大規模な国防軍の創設を志向し、マッカーサーとダレスに打診しているという事実と、「再軍備するとの前提に立って進められている」日米間の折衝、さらには冷戦勃発前の(当時のアメリカは日本の再軍備を警戒していた)朝海「提案」(=再軍備の提案)などから、「吉田神話」はここにおいて完全に否定される。

 こうなると、吉田の方針と当時明確な再軍備論者とされた芦田均や鳩山一郎などの方針と一体どこが違うのか。先ず芦田は「自衛部隊」の創設に「即時着手」を主張していたが、一方で吉田内閣の路線とは異なり、金銭的な制限を付けていた他、国民への啓蒙活動を政治活動の基本にしていた。また、鳩山についても、海外派兵を拒否する姿勢は吉田と同様であるが、あくまでも「明示的再軍備」つまり問題を世論に直接問うべきと言う姿勢であった。しかし、吉田は自衛隊が発足した際も憲法問題を“素通り”し、そのため議論の“すり替え”と再軍備の“実態隠し”に終始した。ここから、吉田は世論を恐れ、日本人の国民性に対する懐疑、あるいは侮蔑しており、「秘密外交」を当然とする様子が窺える(これは高坂氏も指摘)。そして、この姿勢がアメリカの不信と国内における「密約外交」批判になるのである。とりわけ、国民については“秘密性”のみならず、彼の外交や防衛方針が、アメリカの戦略適用性の対応によって規定されていたという意味において“二重に疎外”されていた。ただし、吉田はダレスの再軍備要求には頑強に抵抗していたのは事実である。しかしながら、それもアメリカの「安保タダ乗り」批判という構造的問題を作り出したという意味で帰責性がある

 池田・ローバートソン会談も結局は「神話」であった。これについても、池田がアメリカ側の再軍備要求に抵抗し吉田路線を貫いたと評価されているが、実際はアメリカ側は再軍備についてそれほど議論する気はなかった。これは、アメリカが中立化する日本の世論に配慮し、対日方針を経済再建と国内治安の確保という問題に転化した結果に過ぎない。アメリカの対日政策の転換は、日本にとっては“中立主義”というカードを握ったことを意味していた。しかし、親米一途な吉田は、そのカードを早々に捨ててしまった。この点で、アメリカの再軍備要求に対する吉田の抵抗は限界づけられてしまう

 第二次世界大戦後の枢軸国の動きについて比較を加えると、どの国も軍事力よりも経済を優先していた。また、ドイツの場合は、外交政策の基本は「デモクラシー国家」たらんとする、つまりナチズムと断絶することであった。また、イタリアはナチス・ドイツと戦うという“実績”を示していた。しかし、日本は自らは特に何をすることもなく「信頼と和解」に由来する寛大な講和を手にした。ただし、これは単に冷戦の本格的な進行と朝鮮における熱戦の展開がアメリカの政策転換をもたらしたことの“成果”であって、日本が自らの努力によって関係諸国、周辺諸国の「信頼と和解」を獲得した結果ではなかった。にもかかわらず、この点に関する日本政府の“思い違い”がその後の日本の歩みを規定した。

 吉田自身は外交における大切な要素として、「クレディット(信用)」を挙げるが、吉田の現実の外交を見る限りどれだけ外交上の「クレディット」を拡げることに努めたのかははなはだ疑問である。もちろん、アメリカの「クレディット」を拡げることには一際積極的だったが、とりわけアジア外交に関して、そもそもなぜ日本が賠償をかけられたかという根本的な問題の認識はかけらもない。また、吉田の言動を見る限りは彼にとっては沖縄も税金と人口問題の対象でしかなかった。また、ソ連については鳩山政権時の日ソ国交回復交渉を妨害し、対中外交は封印した。「商人的政治観」を有する彼が日中間の貿易拡大に障害を作り出したのである。しかし、アメリカの「クレディット」を得ることに努めてきても、結局はニクソンショックが発生した。もちろん、この問題の背景には佐藤政権への不信感があるが、日米貿易摩擦という「国民レベルでの不信感」も関連していた。これは、「親米一途」の外交において、日米関係にヒビが入るならば必然的にもたらされる“帰結”であり、「寛大な」講和に甘んじてきた日本外交のツケである。「吉田ドクトリン」を再検討する際の立脚点とは、その世界のモデルともなるべき路線を選択して国際社会に復帰したはずの日本が、“孤立”してしまった理由を問いかけることでもある。


<シタン先生の問題意識>
 戦後日本政治史の通説である「吉田ドクトリン」に対して、事実関係や当時の新聞、外交資料などを冷静に分析し批判を加えることにある程度成功したと評価できる。状況資料なども用いられているが、的確な論理の運びからか、その説得力は大きい。しかし、そのように充実した内容の前半と比較した場合、「吉田ドクトリン」ではなく「吉田の外交」そのものを分析し批判している後半との違和感が感じられ、全体としては、なんとももったいない論文になってしまっている。また、後半になるにつれて、論理の飛躍も散見されるようになり、それが読者の混乱を招く。


今回のレビューはこれで終了です。


最後に、僕の友人の中でロースクールの合格者がでました!!

キタ─wwヘ√レv~(゚∀゚)─wwヘ√レv~─ !!

M君・H君、合格おめでとう!!

これからも大変だろうけど、将来は私を弁護して下さいませm(_ _)m


今回も読んで下さりありがとうございました☆それでは♪


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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少し回り道をしながらも、何とか内定にこぎつけた修士二年生のブログ。ぼちぼち更新しますよ。

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