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『終わらない20世紀』レビュー(その6)

こんばんは。シタン先生です。

久しぶりに書店に行ってみたのですが、靖国、戦後処理、日中・日韓関係の本(新書)が色々出ていますね。

戦後60年を過ぎてもなお(むしろ今だからこそ)、ホットな問題なんだと実感しました。


色々と読み比べてみたいので、ありったけ買ってみたかったのですが…金銭的事情から諦めました(涙)


さて、今回も『終わらない20世紀』のレビューを進めていきます。
今回は、第5章です。

現在、私がレビューしているこの本も、上記の要素を含んでいる本なのでしょうね。


それでは、いってみましょう。

石川捷治・平井一臣[編] 『終わらない20世紀-東アジア政治史1894~-』 法律文化社 2003年


第Ⅲ部 熱戦・休戦・冷戦-1950~1970年-

第5章 「東アジア冷戦のなかの日本-保革対立と高度成長-」


<本章の狙い>
 「保守勢力と革新勢力の対立関係を基本に展開していった1950年代および60年代における日本の政治経済のあゆみを概観する」


<本章の時代背景>
 東アジアに冷戦が波及したことにより、日本はアメリカより東アジア冷戦戦略の重要拠点の役割を与えられ、アメリカの意図を受け忠実に振る舞うことが求められた。その結果、日本は資本主義世界における中核国家としての位置を獲得し、荒廃から復活、さらに「奇跡」と呼ばれる高度経済成長を成し遂げた。
 しかしながら、アメリカの政治的軍事的戦略に組み込まれることは、新たな戦争に巻き込まれる危険を、そして保守政権の国内政策や政治手法は、しばしば戦前の権威主義的な政治体制を国民各層の間に想起させたことは否定できない。そして、それは革新勢力の形成へと繋がっていった。


<本章の要約>
【一 東アジア冷戦の開始と日本】
 中国における共産主義国家の登場によって、アメリカは日本を東アジア戦略の要と位置づける意図を示し始めた。それゆえ、対日占領政策も、非軍事化・民主化から、アメリカの対東アジア軍事戦略と資本主義経済の担い手として早急に自立させる事へと、方針が転換された。具体的には、官公庁・民間企業からの共産党員の一斉追放(レッドパージ)、インフレの早期収束による経済安定化を目指した経済財政政策(ドッジ=ライン)などが図られた。

 これらの政策の結果、左派労働組合は大きな打撃をうけ壊滅。日本共産党もそれを受けて武装闘争路線を打ち出したため、大衆的支持・政治的影響力を喪失することとなった。そんな中、労働運動や大衆運動と対決した吉田茂が再び首相の座につき、占領軍の意に沿った政策を行っていった。

<シタン先生の問題意識>
 私が以前読んだ論文では、吉田もGHQなどとかなりの折衝を繰り返していたと書いてあった気がするのですが…。


【二 革新勢力の形成】
 こうして、アメリカの対日政策目標はほぼ達成され、不安定な40年代後半も克服されたかに見えたが、ドッジ=ラインの影響、そして新たに浮上していた朝鮮戦争および講和・安全保障・再軍備といった問題が新たな政治的イシューと国内情勢の変化をもたらす。朝鮮戦争が始まるとマッカーサーは吉田に警察予備隊の創設を指令、事実上の再軍備が開始された。そして、片面講和(単独講和)、日本における米軍駐留日本再軍備などを柱とした対日講和条約(サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約<(旧)安保条約>)が結ばれた。しかし、アメリカや日本政府のこのような動きに危機感を抱く者も少なくなく、「全面講和運動」が活発化するなど、講和や安保、再軍備についが政治的イシューとなるのである。

 その当時、日本社会党の右派・中間派(反共・親米路線)は、占領軍の後押しを受けつつ、右派・中間派の流れを汲んだ日本労働組合総評議会(総評)を結成した。しかしながら、ドッジ=ラインによってもたらされた不況と解雇の波は、彼らの間にも不満を蓄積させ、ついには反米的な「平和四原則」を主張、左派社会党との連携を強めるに至った。結果、総評の支援もあり社会党は右派と左派に分裂、左派社会党と総評は、反米・反吉田の最大勢力となる。

 1951年9月には、講和・安保両条約が締結、翌52年4月に発効し、日本は国際法上「独立国」の地位を回復した。しかし、台湾国民政府との講和は中華人民共和国との敵対関係を続けることであり、ソ連に関しても講和が成立せず北方領土問題も未解決な状態が続くなど、その後に大きな障害を残すこととなった。朝鮮半島においても、北朝鮮については合法的な政府と認めず、韓国についてもアメリカの後押しがありながらも国交回復はその後しばらく実現しなかった。さらに、沖縄・奄美・小笠原諸島も引き続きアメリカの軍政下におかれ、政治的自由や民主主義、さらには経済成長の面でも、日本本土から取り残されることとなったのである。

 講和発行後も政権を担当した吉田茂は、戦後民主化改革の方向を逆転させ戦前的な要素を復活させる姿勢(「逆コース」)を鮮明に打ち出していた。これに対して、前述の左派社会党と総評は「平和」「民主主義」をスローガンに吉田政権への対決姿勢を強めていく。また労働者が、朝鮮戦争による「特需」によって失業の脅威から解放され、賃上げを要求できる闘争条件が備わったことも、彼らの運動を促進させ大規模な労働争議をもたらした背景にあると言えよう。結果、分裂当時は少数派にとどまっていた左派社会党は、53年には右派社会党勢力の4.5倍もの勢力を獲得、55年には左派優位のもとで社会党は再統一されるに至った。また、54年のビキニ環礁水爆実験・第5福竜丸事件に端を発する原水爆禁止運動の拡大も、左派社会党の勢力拡大の一因となった。このようにして、保守政党と激しく対峙する、戦後「革新」勢力が形成されていくのである。

“「平和四原則」”
・全面講和
・中立堅持
・軍事基地提供反対
・再軍備反対

“「逆コース」と言われる諸政策”
・1952年7月、警察予備隊から保安隊へ
・1954年、保安隊から自衛隊へ改組発展
・破壊活動防止法(破防法)制定
・警察制度の中央集権的改革

<シタン先生の問題意識>
 マッカーサーは「再軍備」をさせるにあたって、憲法9条についていかに考えていたのかが気になる。 


【三 「55年体制」の成立と安保闘争】
 講和条約を発効させた吉田であったが、それは同時に占領軍の撤退とそれに伴う後ろ盾の喪失を意味することであった。それゆえ、吉田は急速に求心力を喪失しつつあった。一方の反吉田派は、1954年の日本民主党(総裁:鳩山一郎)として結集する。しかしながら、吉田自由党と鳩山民主党は、主要政策や政治路線などに共通する部分が多く、社会党統一を受け「保守合同」の気運が高まった。さらに、「造船疑獄」を受けての54年の吉田内閣退陣、続く鳩山民主党政権誕生をへて、55年には「保守合同」が実現、自由民主党(総裁:鳩山一郎)が誕生した。そして、ここに「55年体制」が成立するのである。

 50年代から60年代にかけて、保守政権が自らの理念を実現しようとし、野党が物理的に抵抗、またそれに対して与党が強引な手法で立法に持ち込むというパターンが繰り返された。そして1960年代の日米安保条約の改定をめぐり、その対立は頂点に達する(「60年安保闘争」)。条約の採決をめぐって、岸内閣は警官隊を国会内に導入、野党議員を強制排除する中で強制採決を行った。しかし、この手法は「民主主義擁護」の大衆運動を高揚させることになる。社会党・総評などの労働者に加え、一般市民や学生なども加わった数十万規模のデモ隊が国会を包囲、一部は議場内に突入し、警官や右翼団体との衝突の中で死者も出るほどであった。これらの運動は、アイゼンハワー大統領の訪日中止と岸内閣の退陣をもたらすも、改訂阻止が達成されることなく運動は終息した

“自由党・民主党で共通する政策”
・経済的自由主義の維持および拡大
・戦後民主化の「いきすぎ」修正と伝統的価値の擁護
・再軍備の促進と安保条約の堅持

「造船疑獄」:自民党幹事長・佐藤栄作、同政調会長・池田勇人らが、海運・造船業界から巨額の賄賂を受け取ったとされる事件。大規模な疑獄事件となったが、法相の検察庁に対する指揮権発動により真相が分からないまま終わる。世論からの強い批判を浴びた。

「55年体制」:「保守」「革新」二極の対立を軸としつつも、保守政党が一貫して優位を占める政党システム

<シタン先生の問題意識>
 右翼団体は、デモ隊と衝突したのだろうか。岸内閣の前の石橋内閣が行った政策などがあれば勉強してみたい。


【四 高度成長の開始と保革両陣営の変化】
 日本における革新勢力、世界各地における民族主義運動や「非同盟運動」といった流れは、アジア諸国が全体的にアメリカ陣営から離脱するのではないかという危機感をアメリカに抱かせた。そして、その原因がアジア諸国の経済の「前近代」的な点にあると判断したアメリカは、アジア・アフリカ諸国に対して、軍事援助のみならず「近代化」へ向けた支援も積極的に行うことで、事態の打開を目指した。当時の日本は、大戦によって損なわれた経済の基礎条件もかなりの程度回復させていたことから、以前からの政治的・軍事的要衝としての位置づけだけでなく、アメリカの支援戦略を適用するモデルケースとしても、要の位置づけを与えられることとなった。これに伴い、日本の保守政権も池田勇人のもとで、「寛容と忍耐」を唱え、国防などの問題は避け、「国民所得倍増計画」などにみられる経済政策重視の方針を打ち出した。

 設備投資・技術革新と言った面におけるアメリカからのてこ入れもあり、日本は1950年代後半から15年にわたって年平均約10%の成長率を維持する過程を歩み始める(高度経済成長)。また、「春闘」が始まったことをきっかけに労働者の所得水準が安定上昇、これが内需拡大を生み出した。1964年のIMF八条国以降による為替の自由化、経済協力開発機構(OECD)への加盟など、経済的先進国としての地位を獲得したのもこの頃である。

 しかし、自民党の支持率は一貫して下がり続けた。自民党の支持基盤であった旧中間層が、経済成長によって解体されたためであった。一方の社会党も、エネルギー革命などによる炭坑労働組合の解体、技術革新による熟練労働者を中心とした自律的労働者集団の解体など、その支持基盤に大きな変容があった。そして、自律的な職場社会を解体された労働者らは、経営者によって導入された「能力主義管理」という新たな労務管理体制のもと、経営者に協力し企業の繁栄を目指す存在、政治的には政治的無関心層~自民党支持へと変化していく。これらの変化は、新たな企業内組合の総評離れ、ひいては総評・革新勢力の衰退へと繋がっていった。
※労働者らは、消費生活の向上にもっぱらの関心を置くようになり、特定の政治勢力を支持することがなくなった。また、現状維持志向が強い者は自民党を支持するようになった。

「春闘」:毎年春に各産業の労働組合が足並みをそろえて賃金交渉を行う。1955年から始まった。

<シタン先生の問題意識>
 「寛容と忍耐」とあるが、何に対する「寛容」であり「忍耐」であるのか。自民党の支持率が下がるメカニズムが分かりにくかった。


【五 保守支配の同様-むすびにかえて-】
 池田政権の政治姿勢・経済成長による「天下太平ムード」、革新勢力の衰退などによって一旦は保守支配の安定化が見られた。しかし、ベトナム戦争が開始されたことで、アメリカは日本に対して重要な役割を果たすよう求め、それに対して池田・佐藤政権とも積極的に協力、日本はベトナム戦争の後方基地を果たすことになる。これは、特需による経済成長の再開をもたらしたが、一方でベトナム戦争に関連して、佐藤の戦争協力や日韓基本条約の締結に反対する勢力も現れ、60年安保以来の大規模デモなど新たな保革対立を作り出した。さらに、ベトナム戦争は前線基地たる沖縄の問題も顕在化させ、結果沖縄では「祖国復帰運動」、本土では革新勢力を中心に沖縄返還運動が展開された。また、これらの運動の推進力であった大学生は、次第に保守的な大学に対しても批判を向け始め、ベトナム反戦運動と共に学生運動として相互作用しながら展開することになる。

 急速な経済成長は、一方で公害問題や都市問題、福祉問題などをもたらした。これらの社会的歪みは、「成長から福祉へ」というかたちで噴出した。そして、こうした不満を背景に、大都市を中心とする「革新自治体」が次々に誕生する。彼らは、市民との対話などの自治体行政の「民主化」を示すと同時に、公害対策、福祉対策などで新たな政策を打ち出した。この変化は、保守と革新の間に「中央直結・開発重視」か「住民本位・福祉や環境重視」かという新たな争点軸を与えたのである。

<シタン先生の問題意識>
 学生運動とベトナム反戦運動が相互作用するというのが分かりにくかった。


<総評(笑)>
 保革対立は本章を通底して書かれていることから、当初の目的は達成されていると言える。ただ、自民党の理解がいささか片面的すぎる気がする(自民党の多様性など)。


今回もちょっと長めのレビューになってしまいましたねm(_ _)m
ですが、現在の日本を考える上で、有益な知識であると思います。

例えば「朝まで○テレビ」で、いきなり訳の分からない単語が出てきたり(笑)


今回も読んで下さりありがとうございました☆それでは♪


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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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