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『終わらない20世紀』レビュー(その5)

こんばんは。シタン先生です。


昨日は中学校時代の親友の初盆ということもあり、久しぶりに中学時代の仲間と再会しました。

みんな、あんまり変わってないなぁ(笑)

ですが、親友の一人が彼女を連れてきていました!しかも、かなりの美人さん!!
彼女を実家に連れてくるということは…( ̄ー ̄)ニヤリ

「いやぁ~よかったなぁ~○○君?(笑)」

これからもお二人の仲が末永く続きますように♪


今回も『終わらない20世紀』の第4章をレビューします。

では、いってみましょう。


石川捷治・平井一臣[編] 『終わらない20世紀-東アジア政治史1894~-』 法律文化社 2003年


第Ⅱ部 「近代の超克」その夢と現実-1930~1950年-

第4章 「冷戦と分断国家の形成、そして民主化-韓国における「解放」の現実-」


<本章の紹介・狙い>
 朝鮮半島においてどのように分断国家が形成されたのか、形成された分断国家はどのような体制であったのかについて、主に韓国を対象に見ていく。



<本章の要約>
【一 解放と占領】
 日本政府によるポツダム宣言の受諾が濃厚になる中、朝鮮植民地支配をしていた朝鮮総督府はソ連とのパイプを持つ呂運享に協力を要請した。背景には、戦後ソ連が朝鮮半島全域を支配するという、総督府の予測があった。そして、8月15日、その呂運享を中心に建国準備委員会がソウルで組織された。これは、朝鮮人自身の手による新政府樹立が目指されていたことを意味する。この「建国準備委員会」「人民委員会」は各地で作られ、その数は100を超えていた。

 ソ連による朝鮮半島全域の占領を懸念したアメリカは、ソ連に北緯38度線での分割占領を提案。ソ連もそれを受け入れた。まず先に占領行政をはじめたのはソ連であった。ソ連は人民委員会を利用していた。しかし、アメリカが朝鮮半島に上陸を開始するのは9月初旬であり、建国準備委員会はその前にソウルで「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言していた。朝鮮人自身の手による「建国」を既成事実にしようとしたのである。しかしながら、上陸したアメリカは朝鮮人民共和国を否定、38度線以南の南朝鮮では、軍政庁が唯一の政府であるという立場をとり、朝鮮人自身の統治を否定した。

 朝鮮の独立を道筋付けるためのモスクワ三国外相会議において、朝鮮独立のための手順が決められ、またそのために米ソ両占領軍による共同委員会を開催することも決められた。しかしながら、南朝鮮の人々にとってそれは即時独立の否定であることから、ほぼ全ての政治勢力から強い反発が起きた。ところが、46年1月になると、朝鮮共産党などが信託統治案を受け入れるべきだという主張に転換し、信託統治案の受け入れをめぐって政治勢力が二分された。

 南朝鮮において信託統治案に反対したのは、①日本の植民地支配下において海外で独立運動を行なっていたグループと、②地主や旧植民地官僚などの「政治エリート」であった。とりわけ、②の「政治エリート」は、戦後指弾される恐れがあったために、独立を強調することで「愛国者」のイメージを与えようとしていたといわれている。また、信託統治案の受け入れを主張したのは朝鮮共産党であったが、背後にはソ連からの働きかけがあったものと考えられる。

 そして、第一次米ソ共同委員会が開催されることとなったのだが、共同委員会が協議対象とすべき「朝鮮人団体の範囲」をめぐって意見対立が起きた。ソ連占領軍は信託統治案に反対する勢力の排除を訴え、アメリカ占領軍はこれに反発した。南朝鮮において信託統治案に反対するものは反社会主義・非社会主義主義の立場であり、容認的な者には社会主義的・容認的立場の者が多かったためである。それゆえ、米ソの対立は妥協しがたい困難なものとなってしまい、共同委員会は序盤で躓いた。

[シタン先生の問題意識]
 総督府はいかなる考えを以って呂運享に協力を依頼していたのか、という重要部分が必ずしも明らかになっていない。また、朝鮮人自身の手による自治を否定していたのはアメリカであるはずが、共同委員会においてソ連に反発するというのは理解しにくい面がある。


【二 分断国家樹立への道】
 第一次米ソ共同委員会の失敗後、アメリカ占領軍は南朝鮮において「左右合作運動」と呼ばれる運動を展開した。その運動では、モスクワ合意(信託統治案)に対して強硬に反対する勢力の排除が期待されていた。そして、比較的穏健な「中間派」を結集させ、米ソ共同委員会を再開しようとしたものと考えられる。ただし、一方で「左右合作運動」では、明確な社会主義者への排除も志向されていたようであり、アメリカ軍政庁は朝鮮共産党に対する弾圧を強めていた。

 アメリカ軍政庁の動きだが、結局左右合作運動は一部政治指導者による連携にとどまり、むしろ社会主義勢力の社会的基盤が一方的に損なわれるという結果が生じた。この点で、米ソ共同委員会の開催はますます困難になったのである。従って、アメリカはモスクワ合意を事実上放棄した。そして、アメリカは次に国連の監視下における南北総選挙を提案するが、ソ連がこの案を拒否、しかしながら国連では可決された。こうして、国連臨時朝鮮委員団が派遣されたのだが、ソ連占領地域(北朝鮮)への立ち入りを拒否されたので、結局アメリカ統治の南朝鮮のみで選挙を実施、分断国家形成の動きが始まったのである。

 これら一連の流れの中で、信託統治に反対する者の影響力は一見すると皆強まったのであるが、いざ分断されたまま選挙がされることには反対の意見が起こり、北朝鮮の金日成らと会議が行なわれた。彼らはあくまでも朝鮮半島としての独立を志向していたのである。しかし、この会議でも単独選挙の流れを止めることは出来なかった。ただし、おなじ信託統治反対論者の中でも李承晩らは、アメリカがモスクワ合意を破棄し、南朝鮮のみの単独選挙へと方針転換したので影響力を強めることが出来た。また、影響力を弱められた朝鮮共産党も闘争を続けており、済州島では武装蜂起が起こった。

[シタン先生の問題意識]
 左右合作運動の説明がいまひとつ分かりにくかった印象。やはり、アメリカの考えが分かりにくいことが、本節の理解を妨げている気がする。


【三 建国と朝鮮戦争】
 1948年5月に南朝鮮全域で単独選挙が実施、憲法制定国会の議員が選出され7月に憲法制定。さらに、国会における間接選挙によって初代大統領に李承晩が選出。8月15日に大韓民国(韓国)の樹立が宣言された。これに対し、9月9日には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の樹立が宣言された。両者とも自らを朝鮮半島唯一の正当政府として譲らなかった。ただし、韓国内部では政権を脅かす要素が多数ったことから、李承晩は国家保安法に代表される反共=反北のための制度を整備し、それを利用することで反対勢力の駆逐を目指した。しかし、50年朝鮮戦争の前に行なわれた選挙では、李承晩政権支持派は議席の少数を得るにとどまった。

 1949年10月に中華人民共和国(中国)が成立すると、アメリカは韓国に、中国は北朝鮮に、それぞれ軍事援助をしたので朝鮮半島における軍事的緊張は高まった。50年6月25日、北朝鮮は韓国を「解放」し、統一を実現するべく戦争を開始したが、国連安保理(ただし、ソ連欠席)はこの行動を平和を乱す行動と判断し、北朝鮮撤退を決議・国連軍の派遣(総司令官はマッカーサー)を決定した。戦局は当初めまぐるしく変化したが、結局38度線をはさんでのこう着状態に落ち着いた。ソ連側から休戦が提案され、国連軍や、中国人民志願軍、北朝鮮もこれに同意したものの、韓国のみはあくまでも武力統一を主張した。しかし、韓国も最終的には、アメリカからの軍事・経済支援を受けることを引き換えに、休戦を実質的に承認した。

 国会に影響力を行使しようとした李承晩は、51年8月与党の組織を表明、さらに大統領の直接選挙制への改憲をもくろんだ。しかし、それらの実現が難しくなると、朝鮮戦争におけるゲリラ戦を口実に(当時は、北朝鮮がプサン近くまで攻め込んでいた)当時の臨時政府であるプサンに厳戒令を敷き、反対派の国会議員を逮捕。そして、最終的には警察に周囲を囲まれた状態で改憲を成立させるという強圧的な手法をとりながら、李承晩は再選を目指した。

[シタン先生の問題意識]
 この章は、流れや戦争と韓国国内政治とのつながりなど分かりやすかったように思います。個人的に、李承晩政権とアメリカのつながりが気になるところです。例えば、アメリカは李承晩政権の強圧的な政治手法について以下に考えていたのかなど。アメリカは本書のテーマ上、それほど大きく扱われないのかもしれませんが、やはりアメリカの後ろ盾あっての韓国だとも思えるので。


【四 独裁と民主化】
 改憲によって導入された大統領直接選挙制によって李承晩は再選した。というのも、戦時下という「非常事態」であり環境的には現職に有利だったのである。再選後の李承晩は大統領の再任制限を自身に限りなくそうとするなど、さらなる権力基盤の拡充を追求した。そのためには改憲が必要だったが、「四捨五入改憲」などの強引な手法でまたもや改憲に踏み切った。これに対して、野党は「独裁」との攻撃を強め、統一野党の結成に動く。

 しかしながら、統一野党は反共という理念をめぐって紛糾し結局実現しなかった。一方の李承晩は再選を果たすものの、同時に行なわれた副大統領選挙では野党候補者が当選するという「ねじれ」状態が起きた。その後、李承晩は進歩党を反共を名目に弾圧、党首は死刑になり、党自体も非合法化された。そして、次に「ねじれ」状態を改善するべく、大統領職と副大統領職の統一選挙を改憲によって実現させようとしたが、その後の総選挙では野党民主党が三分の一以上の議席を確保したために、民主党の切り崩し以外に改憲を成立させることは難しくなった。そこで、李承晩と与党自由党は言論の自由の制約など、権力基盤の拡充によって対処しようとしたが、野党・マスコミが猛反発した。これに対して、李承晩は新聞の発禁処分など強硬な態度をとった。

 1960年3月に大統領・副大統領選挙が行なわれたが、与党が選挙に介入したこともあり、結果は与党の圧勝だった。しかし、これは露骨に操作された不正な選挙であるとの批判を浴びた。そして、4月19日にはソウルの学生がデモを行い大統領官邸を包囲した。李承晩は厳戒令を敷き、軍隊を動員したが軍隊は中立の姿勢を見せたため、追い詰められた李承晩はアメリカに亡命した。これを「4月革命」という。

「四捨五入改憲」:54年11月の李承晩に限って再任制限をなくすという改憲案の議決において、当初は三分の二に満たない自由党であったが、無所属議員の懐柔などによって必要な三分の二の議席を確保したはずだった。しかしながら、実際は可決に一議席足りていなかった。これを受けて、自由党は割合的に「四捨五入」すると三分の二であるとの異論を提出し、野党の抗議を無視し、自民党のみで可決してしまったという出来事。

[シタン先生の問題意識]
 特に何もありません。


【むすびにかえて】
 分断国家の形成は東西冷戦などの国際環境の帰結であったと同時に、朝鮮内のアクターによる一定の自立的な政治過程の相互作用の結果であった。そして、建設された二つの国家はいずれも体制の維持を至上命題とする集権的な国家であり、軍事的緊張を伴った。また、とりわけ韓国国内では「反共」という要素が政治的な弾圧の手段として用いられた。このような、韓国における「4月革命」は、国家安全保障のみを口実とする非民主的な体制の正当化に限界があることを示した。しかし、その中でも安全保障というのは民主化に優先されるべきという考えは根強く、韓国でも1961年5月には軍事クーデーターが起こる。しかし、このクーデターによって出来た政権も、「安全保障」以外に「開発」による「富国強兵」という新たな国家目標を提示し、実行に移すほか無かった。

[シタン先生の問題意識]
 4月革命の位置づけは非常に興味深かった。
 

 
<総評>
 ところどころに違和感を感じさせるような記述が見られるとは思うが、難解な語句なども無いので、読みやすいと思われる。ただ、本書の目的意識と整合性があるのかは疑問が残る。


これで、第4章のレビューは終わりです。この章もかなり時間がかかりました…キーボードに慣れていないせいか、キーを打つ手が痛いです(汗)効率的なレビューにするべく、まだまだ精進しなければなりませんね。


この記事も実家から書いているのですが、3日間の帰省の中で2本のレビューが出来たので、自分自身に合格点をあげたいと思います(笑)

問題は英語です。ほとんど進んでいません(マテ
 
ですが、過ぎた時間は戻らないので、戻ってきてから頑張ります!!

ある程度、勉強と遊びを両立できた有意義な帰省でした。
これからの勉強&院試準備に向けての充電も出来ました(`・ω・´) シャキーン


これで、帰省ラッシュに巻き込まれなかったら最高に幸せなんだけどなぁ~(神様お願いします!)
※本日、夜10時ごろ戻ってきます(うまくいったら…) 


今回も読んでくださってありがとうございました☆それでは♪


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テーマ : 歴史
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