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『終わらない20世紀』レビュー(その3)

こんばんは、シタン先生です。

先日、友人から一言。
「最近、なんかこうグッとくるレビューじゃないよね…」

「アハハ…orz」
しかし、内心は結構カチンときてました(#^ω^) ビキビキ..

友人よ、この私を本気にさせましたね?

ということで、今回は『終わらない20世紀』第2章をレビューしようと思います。

本当に、久しぶりですねぇ~(笑)

では、いってみましょう。

石川捷治・平井一臣[編] 『終わらない20世紀-東アジア政治史1894~-』 法律文化社 2003年


第Ⅰ部 近代のパラドックス・抵抗と受容 -1894~1930年-

第2章 「東アジア国際秩序の変容と朝鮮-近代化の模索-」

<本章の紹介>
 東アジアにとって20世紀とは「近代化」の時代でもあったわけであるが、東アジアレベルでの「近代化」 、それによってもたらされたものについて、朝鮮の事例を中心に考察を進めていく。

<本文の要約>
【はじめに】
東アジアにおける近代化:軍事的・経済的に強力なイギリス、フランスをはじめとする欧米国家をモデルとして新たな国家建設を行う。欧米の「文明」を受容すること(「欧米化」)。

“近代化の特徴”
①主権国家とそれを担う国民の創出
②資本主義化

「朝鮮における近代化の動きについて考える場合には、朝鮮の人たちが日本をどのようにみていたのかということや、日本による朝鮮支配との関係についても目を配る必要がある」
∵とりわけ、20世紀前半の朝鮮を考える場合には、日本という存在を無視することはできない

[シタン先生の問題意識]
 全体を通読した上で、改めて「はじめに」に立ち戻ってみると、朝鮮の「近代化」と「日本」の関係性について、非常に分かりやすい形で論じられているように思う。


【一 日清戦争以前の国際秩序とその変容】
 以前の朝鮮(かつての日本も)は、清を中心とする冊封体制の中に組み込まれていた。しかし、19世紀半ばに鎖国政策をやめた日本は、東アジアの中でいち早く国際法(万国公法)体制に加わり、自ら資本主義世界、ヨーロッパ中心の国際秩序の中に取り込まれた。その後日本は、1875年の江華島事件をきっかけに、朝鮮との間で日朝修好条規(1876年)を締結させる。これによって、朝鮮は冊封体制と国際法体制という二重の国際秩序のもとにおかれることになった。
冊封体制:中国を宗主国とし、周辺国は藩属国となる形式。中国の皇帝と周辺各国の国王との間には君臣関係が成立する。しかし、周辺各国は中国に対して朝貢するのみで独立を保障され、中国からの内政干渉などもなく自由に国を治められる点で、緩やかな階層秩序が成立していると言える。
国際法(万国公法)体制:ヨーロッパを起源とする世界的な国際秩序。国際法の下で、それぞれの国家は対等に扱われるという建前では会ったが、実際は「文明国」の中でしか通用しない概念であり、その「文明」国家間でも最終的には戦争による決着が行われるなど、軍事力がものを言う体制であった。

 しかし、その状態も日清戦争による冊封体制の崩壊で終わる。それによって、アジアは列強間の植民地・勢力圏獲得競争に晒されるわけであるが、朝鮮はロシアと日本の対立の場となった。

 ところで、列強が支配する場合の論理として「文明」という言葉がよく使われる。国際法国家における、主権国家は「文明」国でなければならない、つまり「文明」国以外は国際法体制のメンバーとは認められず、「文明」国の支配におかれても構わない、という理論付けであった。ただし、この「文明」もヨーロッパにおける一つの見方に過ぎない。しかし、「文明」列強は軍事的・物質的に力を持っており、それを背景に自らの支配を正当化した。日本も同様の理論を以て朝鮮を支配しようとしていたのである。

[シタン先生の問題意識]
 本章で、日本による朝鮮支配の支配原理が示されていただろうか…?一応、保護国という名称は登場するのだが…。


【二 近代化政策への着手と反発-日清戦争から日露戦争前まで-】
 朝鮮政府は、日清戦争を契機に「帝国主義」の時代の中で自らの独立を保つべく近代化政策を進める。しかし、これは様々な反発を引き起こした。
 
 まず、日清戦争のきっかけとしての甲午農民戦争が挙げられる。この原因の一つとして、農民の困窮があるが、その背景としては開国政策によって米が海外(とりわけ日本)に大量に流出したことがある。この点で、近代化政策に対する反発と言える。ところで、甲午農民戦争時、朝鮮政府は農民軍の鎮圧のために清政府に軍隊の派遣を依頼したが、これに対抗した日本が朝鮮に軍隊を派遣、結局、これが日清戦争へと繋がった。「日清」戦争とはいっても、実際の戦場は朝鮮半島であった点など、朝鮮の人々と日本との闘いという側面もあったと言える。
甲午農民戦争:朝鮮における大規模な農民蜂起。きっかけとしては、地方における悪政であるが、反乱民が一万人に増加した時には、閔政権の打倒と日本人の排斥が主張されていた。

 日清戦争をきっかけに日本は朝鮮進出を活発化させたが、一方で朝鮮は経済的に厳しい状況におかれていた。一方、意識の面でも日本国内では、自らが東アジアの盟主、日清戦争における勝利は「文明」の勝利であるという見方が広まり、「文明」の面で劣る朝鮮人・中国人を見下すような風潮が生まれた。しかし、朝鮮に対する支配権をめぐって、今度はロシアと対立する。日本が朝鮮を単独統治するだけの力がなかった当初は、ロシアとの朝鮮権益の分割協定で済んでいた。しかしながら、義和団事件でロシアが朝鮮に近い中国東北部を軍事占領したことをきっかけに日露の対立は激化、ついに両国は日露戦争を引き起こすことになる。
義和団運動:中国における大規模な外国人排斥運動(確か…)。清朝政府はこの機に乗じて列強に宣戦布告するが、それに対して列強は居留民保護を目的に連合軍を組織、中国との戦争状態に突入(義和団事件)。日本にとっては、欧米の国々と共に武力鎮圧に参加できることは、列強の仲間入りを果たしたという意味合いを持っていた。

 そのころ朝鮮では、日清戦争中、軍事力を背景とした日本主導の近代化政策(「開化政策」)が着手された(甲午改革)。しかしながら、その過程で閔妃殺害事件、それに伴う初期義兵などの軋轢をもたらした。しかし、朝鮮政府も列強進出に対して、外交政策を駆使することで列強間の勢力均衡を演出しようとするとともに、国名を「大韓」と改め、国王から皇帝と呼称して権威の向上を狙うなど、国際法体制に組み込まれる中でも自らの独立を保つための努力をしていた。また、大韓帝国は「国民」という要素に注目し、その創出に努めたが、人々の中にはその支配から逃れようとする動きも生じた。
甲午改革:日本主導による改革であり、内閣制度など中央集権化に向けた改革、租税の金納化、科挙制度の廃止、身分制の撤廃、相続関係の否定などが行われた。
閔妃殺害事件:在朝日本公使である三浦梧楼らが、朝鮮政府内の親露派勢力を排除するため、その頭目とみなされていた閔妃を王宮で殺害した事件。
初期義兵:近代化を進めていた当時の政権を打倒するため、衛正斥邪派と呼ばれる者が起こした蜂起。「小中華思想」に基づき鎖国政策などを主張した。
「小中華思想」:儒教国家である清(女真族)を野蛮なものとみなし、中国の文化的伝統は儒教の定着した朝鮮に継承されたとする見方。断髪などにも強く反対していた。
光武改革:税金の賦課、土地所有権の確定作業、検地、軍備の拡張を加速させた。また、中央銀行の創設、軍備増強、鉄道建設なども企図されていた。しかしながら、当時の朝鮮は財政的に問題があり、増税し検地事業などを行った結果、農民との間に軋轢をもたらした。

 このように、日清戦争から日露戦争の時期にかけては、政府(日本主導の場合もあり)が近代化政策を展開したにも関わらず、人々の反発を招くことも多かった。これは、朝鮮の地方における旧来の有力者が「小中華思想」という世界観を持っていたことが理由としてあげられる。その考え方によれば、日本主導で行われた甲午改革などは、侵略行為の一環とも捉えられていたが、近代化政策の結果として人々の生活が圧迫されたことも反発の原因となった。ただし、近代化の動きを支持する勢力も登場しており、彼らは国民の創出、議会開設・参加などにより強固な国家を作ることを志向していた事を忘れてはならない。

[シタン先生の問題意識]
 全体としてよくまとまっているように思えました。…ちょっと、悔しいんですけどね(マテ


【日露戦争と朝鮮の保護国化】
 日露戦争は朝鮮の支配権をめぐる戦いであった。そのため、日本は日露戦争開始直後から、朝鮮の支配権獲得のための準備を進めていく。

1904年
1月下旬 大韓帝国、日露対立に関して中立表明   
2月9日 日露開戦
    日本軍、ソウルを軍事制圧
    →日本、内政干渉・日本軍の駐留権・土地収用兼の獲得を狙い、日韓議定書の締結を強要
5月   日本、「帝国の対韓方針」「対韓施政綱領」を閣議決定
8月   第一次日韓協約締結
    →日本、韓国にて顧問を通じた政治(「顧問政治」)を行うようになる

1905年
4月   日本、朝鮮を保護国化する旨を閣議決定
(日本、列強からの承認を取り付けるための外交努力)
7月   桂・タフト協定(日米)
8月   第2次日英同盟条約(日英)
9月   日露講和条約(ポーツマス条約)
11月  韓国に特派大使として伊藤博文を派遣
    →乙巳保護条約(第2次日韓協約)の受け入れを強要。朝鮮、日本の保護国化

1906年
2月   統監府設置
3月   初代統監として伊藤博文着任

1907年
6月   ハーグ密使事件
7月   伊藤によって高宗強制退位、軟禁状態へ
7月下旬 第3次日韓協約締結
    →法令制定などにおいて統監の同意が必要とされた他、日本人管理の任命などが定められる

ハーグ密使事件:高宗が第2回万国平和会議に使者を送ろうとした事件。列国は、日本に対して、朝鮮と保護条約を結ぶことを認めていたことから、高宗はその条約の無効を訴えようとしていた。

 しかしながら、朝鮮は保護国の状態を抜け出し、独立を守るための運動を展開する(「国権回復運動」)。
後期義兵:反日闘争。軍隊が解散されると旧兵士達も合流した。平民出身の指導者が現れたりした点でも、初期義兵との違いもあったが、なによりも近代化に反対するわけではなく、朝鮮の独立のために日本を駆逐することがうたわれている点は大きく異なる。
愛国啓蒙活動:集会・言論・出版などの活動を通じた国権回復運動。教育と産業の育成によって国力の要請を図り、これを通して国権の回復を目指した。

 どちらの活動とも、目的を共有しており、そのためにも朝鮮の愛国心を喚起させようとする点でも共通だった。しかしながら、手段の面では武力による闘争の反日義兵活動に対して、愛国啓蒙運動の活動家らは批判的であった。また、愛国啓蒙活動においては「文明」受容の必要性が強調される。さらには、「文明」受容論の行き着く先としての、「東アジアの盟主」日本による支配を期待する者も現れた。

 このように、日露戦争から保護国化への過程においては、独立という目標のために「文明」を受容すべきとの意見や、民族意識の喚起などがなされるようになった。

[シタン先生の問題意識]
 この頃になると、政府のみならず、民衆もとりわけ愛国心の関連で「近代化」を受け入れ始めている事が分かる。些末ではあるが、その後「小中華思想」はどうなったのかが、書かれていないような気がした。


【むすびにかえて】
1909年
日本、「南韓大討伐作戦」を展開、義兵を弾圧・壊滅

1910年
8月   「韓国併合二関スル条約」締結
    →日本、朝鮮を完全に植民地化
    18年まで、韓国の土地調査事業を実施
    →地主、日本に有利な形で土地の確認がなされる

 その他にも、20年代は日本へ渡る朝鮮の人々の急増(在日コリアン社会の基礎)などが起こった。

1919年
3月   3・1独立運動

 しかし、3・1独立運動を弾圧する一方で、従来の「武断政治」から「文化政治」へと朝鮮統治政策が転換されたが、それにより朝鮮における民族運動が活性化した。

[シタン先生の問題意識]
 「安易な比較は危ない」という旨主張する本をついこの前レビューしたのですが、ここでは一言。手段としての「近代化」を志向していたのは、日本も朝鮮も同じだったように思うのですが、日本は独立を保ち国際法体制の一人のプレーヤーとなる一方で、朝鮮は植民地化されていますが、両者を分けた者は何だったのかなと(かなり、おおざっぱな議論ではありますが 苦笑)。


さて、今回のレビューはこれにて終了です。

友人よ、まいったか!!(何

ですが、かなりの時間を費やしてしまいました…これから、英語です(遅


はぁ、ちょっと後悔(苦笑)


今回も読んで下さってありがとうございました☆それでは♪


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ジャンル : 政治・経済

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